叔母の葬式

叔母の葬式

12月17日
父の一番下の妹、自分と21歳離れている叔母の葬式でした。
父は5人兄弟で、男3人女2人です。
自分が生まれる頃、叔母は酪農を学ぶために北海道へ研修に行っていたらしく、
その前後にも現在の農林大学校、県の畜産試験場などでお世話になっていたようで、
自分も農林大や畜産試験場にお世話になった時には、『菊ちゃんの弟かい?』って『甥です』って度々返すほど、叔母は有名でした。
北海道でも、当時かなり元気だったらしく、自分の車で運転して北海道まで行ったとか、父もそういった過去のことを生前でも振り返っていました。
まあ、とにかく元気でネガティブなことや弱音は聞いたことがないほどでしたが、
患っていた病気は長女の出産後、膠原病から始まり早くから腎不全による人工透析を1日おきにやっており、
見ていないところでは苦労や苦痛とかなり戦っていたようです。
そうなると、甥の自分は叔母さんは病気で無いと思ってしまうくらいに、錯覚してしまったと思います。
嫁ぎ先はやはり頑張りやの家で、自分はいまだに色々と頼らせていただいており、身内として仕事面でたくさんお世話になりました。
小菅牧場は、
自分から見て先先代が、多くを築き上げてきているように思えますが、
父の代、先代も時代の変化に合わせて『継続』という形で進化していました。
叔母の葬式で、叔母は叔母なりに嫁ぎ先で力を合わせ頑張ってきたことが感じられ、
小菅牧場はそれに恥じないよう、進化し続けなくてはいけないと思いました。
当初コロナの影響があまり無い産業と思われましたが、
これだけ経済が大きく変動すると、購入する資材の価格が販売価格に反映しづらい仕組みを脱却すべきだと思います。

赤字、儲からないなら、廃業。
反対に、儲かるから始めます。いや、そんな簡単にリスタート出来ないんです。
多くの人に、酪農という産業を理解していただく、乳牛が日本からいなくなる前に酪農の重要さを気付いていただきたいと思いました。
また、叔母の命をかけた生き様、野菜も含め食べ物を生産することの重要さ、そういったものをもっと深く日本国民が分かってくれたら、農業者全ての人が報われるのだと思いました。

自分はまだ、生き様や実績が未熟でついていかず、
思うことだらけを並べてしまい、読みずらい文になってしまいました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

明日からもまた、おもいきりやれるだけのことを精一杯やります。